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(ブルネイ日記 6月19日 着想) 人生に影響を与えた20のフライト 6部作その4 「進化するゲーム」
飛丸日記
(2024/12/25 18:57:24)
(ブルネイ日記 6月19日 着想) 人生に影響を与えた20のフライト 6部作その4 「進化するゲーム」 (2015/7/30 15:50:32)
・またまた改めて、FB記事の抜粋。
そう言えば、このフライト、錠とタスクは決めていました。笠間駅、友部ジャンクション、モーパラ。
ログが最後にカクカクとなっているのは、その為。
でも確かにタスクをこなしに笠間、友部を取りに行った途端に雲がない領域を無理やり飛んで、
一気に140まで落ちてしまいました。
・象徴的なよなあ、この状況。
・目標設定をしてから飛び立つ。
気象条件に応じて、目標設定を変える。
この時は、気象条件が思いの他、良かったので、飛び出してから、
数倍の距離のフライトに変更。
その後、状況に応じて、改めて目標を以前のものに戻す。
しかし、強引に目標達成に拘った為に、一気に苦難に陥った。
何とか克服、最終的にはゴール達成。
・人生においても同じ。
目標設定は大事。でも、目標に囚われ過ぎてはいけない。
場合により、頭の片隅に置き、違う事に集中する。
時が来れば、目標達成にまい進する。
そして、最後の最後まであきらめない。
・大学3年の春、ハンググライダーの練習の為、西富士(富士宮)に一か月籠った。
全て車中泊。
同時期に籠っていた金沢大、金沢工業大学のハング仲間と非常に親しい間柄に。
天気が悪い時は、丹那、湯河原のハング・ショップを訪ねたり。
夜は何時も トランプやらに興じていた。
・その時にやったトランプ遊び、名付けて
「進化するゲーム」
勝った人が 今までルールに加えて 新しいルールを考え、足しこんでいく。
もっとこうした方が面白いんじゃないかと、皆でいろいろな意見を出し合い、
最終的に採用する新ルールの決定権は前回の勝者にある。
例えば、最初は普通のババ抜き。そこから、こういう場合もカードを出して良いとか。
どんどん面白くなるが、やがて行き過ぎて、大抵、ある方向に特化しすぎておかしくなりだす。
そして最後はルールの複雑さに誰もついてこれなくなる。
但し、勝者は 新しいルールを何も採用しない、という選択もできる。
また、何か不要と思うルールを取り去ることもできる。退化できるルールもある。
・今でも覚えている位だから、結構面白かった。
最後には、どうしても誰かが無理な進化を取り入れ、複雑になりすぎて、わからなくなる。
The End。
何か人間の進化の過程のような。
「Global Standard」とか言って、勝手にルールを作り、その登録費やら検査代を取る欧米勢。
やりたい放題。やられるがままの我々。世の中の縮図。
・大分脱線。
言いたい事
教訓そのXX 「 To be Game Changer ( ゲーム・チェンジャーになれ)」
ルールは自分で作り出せ。
決まりを守り、がんじがらめにさせられる立場でなく、決まりを作る側に回れ。
教訓そのXX「自分のFiedlで戦え」もこの一つ。
会議等でどんな話題を議論するのか。
交渉で、何を論点、論拠にして、ディベートを行うか。基準を何にするのか。
ビジネスで、何を競い合う基準とするか。
目標そのXX「社会のルールの創出」
これが出来たら最高である。
・まあ、これも程度問題。
行過ぎると、誰かの様に「非常識」「無法者」と言われてしまう。
そう言えば、日本記録を出した足尾(筑波山)でのフライト。
大阪から引っ越して来た新参者。当時、普段は、直ぐ近くの板敷山でフライトしていた。
飛び出す場所が高く、朝早くから日が照りサーマルが期待できる東向斜面のエリア、足尾。
そこで開かれる大会。ハング・ショップOpaの餅田さんに、遠征として連れて行ってもらった。
日本記録を出したのは、足尾を初めて訪問し、大会として参加した二日目のフライトだった。
気象条件が無茶苦茶いい。
大会で設定されたコース・フライトをぶっちぎり、勝手に大好きなクロカンを行う。
・でも、ちゃんと最低限の決まりは守る。
5時半過ぎ、大会本部に一報の連絡。
「すいません、冨原ですがアウト・サイド(ゴールできずに途中で不時着)しました。
回収は自分で行います。」 以上、心配させないように、安全に降りたという連絡。
回収は、板敷山のフライヤー仲間、大学で同級だった鳥海に依頼した。
足尾に戻って来た時には、既に午前3時を回っていた。
鳥海さん。ありがとうございます。
・丁度一年前の同じ4月の第二週。これまた同級の大森が更新した日本記録、136㎞。
172㎞の日本記録樹立の話しが知れ渡り、問い合わせが殺到したのは翌日だった。
・写真は2010年3月。静岡、天竜スーパー林道から実家を目指したフライト。
親友の鵜野と二人でのフライト。
二枚目の写真は対地高度1450m位、同高度で飛ぶ鵜野。
掛川の街並み、母校の高校を見下ろす。
その後、菊川の街並み、母校の中学、実家を見下ろす。彼方に、新設の静岡空港。
ドバイ駐在前の記念すべき最後のフライト。
・初めて実家の上を飛んだのは、挑戦し始めてから、60回目のフライトだった。
埼玉から実家の静岡に、週末何度も通った結果の賜物だ。
・中国駐在から帰任後、二度目を目指して、改めて何度も通った。
実家近くに空港ができる計画が現実化し、その前にもう一度、と目指し始めた。
何度か直ぐ近くまでは行くのだが、届かず。
近くに到達するが、時間が遅くなると、最後に海風が入って来る。南風に阻まれる。
いつも付き合ってくれる鵜野が、先行して空港予定地の横に降りたこともあった。
2㎞手前に降りられる緊急ランディングを確保。飛行計器のGPSに設定。
いざとなったらそこに、と常に意識して飛んだら、そのままそこに降りてしまったことも。
気にしすぎると、その悪い事が現実化する。典型的な失敗パターン。
・開港のタイム・リミットが来たと殆ど諦めかけていた時に朗報。
なんと、空港開港が数か月延期となったのだ。
それを伝えるNHKニュースの映像は、今でも忘れられない。
また、何度も通う日々が始まった。
そして2009年5月末、6月上旬の開港を前に、ラスト・チャンスのフライトで
二回目の夢の実現。
・教訓そのXX 「To Be Greedy」 (どこまでも貪欲に)
三度目の挑戦。
もう一度、実家近くを飛んでみたい。
空港開港後、実家は9㎞圏内の為、真上のフライトは出来ない。
横から見下ろすフライトを目指す。
空港の9㎞圏内は飛んではならない。
従来のコース北からのアプローチでは9Km以上離れたところに、安全に降りられる場所がない。
山伝いに飛ぶ、アプローチが容易な迂回コースは断念。
単独フライトでは不利な平野部を行く、ストレート・コースに切り替えた。
・コースを変更してからは、なんと二回連続で、実家を見下ろすところまで飛べた。
一人で平野を飛ぶ難しさはあるが、時間が早く、海風が入ってきていないのだ。
全く違うコース、全く違う発想により、ブレーク・スルーすることが出来た。
目から鱗。
囚われる事で、如何に自ら問題を難しくしてしまうことか。
新しい発想が、如何にブレーク・スルーを生み出すことか。
・そう言えば、2001年5月、中国駐在前の最後のフライトが、実家への初のフライトだった。
練習が出来なくなる為、技術的には人生のピークと予見したフライト。ラスト・チャンス。
そのフライトで、夢の達成。
・神様は何時もドラマを用意してくれている。
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(ブルネイ日記 6月19日 着想) 人生に影響を与えた20のフライト 6部作その4 「進化するゲーム」 (2015/7/30 15:50:32)
・またまた改めて、FB記事の抜粋。
そう言えば、このフライト、錠とタスクは決めていました。笠間駅、友部ジャンクション、モーパラ。
ログが最後にカクカクとなっているのは、その為。
でも確かにタスクをこなしに笠間、友部を取りに行った途端に雲がない領域を無理やり飛んで、
一気に140まで落ちてしまいました。
・象徴的なよなあ、この状況。
・目標設定をしてから飛び立つ。
気象条件に応じて、目標設定を変える。
この時は、気象条件が思いの他、良かったので、飛び出してから、
数倍の距離のフライトに変更。
その後、状況に応じて、改めて目標を以前のものに戻す。
しかし、強引に目標達成に拘った為に、一気に苦難に陥った。
何とか克服、最終的にはゴール達成。
・人生においても同じ。
目標設定は大事。でも、目標に囚われ過ぎてはいけない。
場合により、頭の片隅に置き、違う事に集中する。
時が来れば、目標達成にまい進する。
そして、最後の最後まであきらめない。
・大学3年の春、ハンググライダーの練習の為、西富士(富士宮)に一か月籠った。
全て車中泊。
同時期に籠っていた金沢大、金沢工業大学のハング仲間と非常に親しい間柄に。
天気が悪い時は、丹那、湯河原のハング・ショップを訪ねたり。
夜は何時も トランプやらに興じていた。
・その時にやったトランプ遊び、名付けて
「進化するゲーム」
勝った人が 今までルールに加えて 新しいルールを考え、足しこんでいく。
もっとこうした方が面白いんじゃないかと、皆でいろいろな意見を出し合い、
最終的に採用する新ルールの決定権は前回の勝者にある。
例えば、最初は普通のババ抜き。そこから、こういう場合もカードを出して良いとか。
どんどん面白くなるが、やがて行き過ぎて、大抵、ある方向に特化しすぎておかしくなりだす。
そして最後はルールの複雑さに誰もついてこれなくなる。
但し、勝者は 新しいルールを何も採用しない、という選択もできる。
また、何か不要と思うルールを取り去ることもできる。退化できるルールもある。
・今でも覚えている位だから、結構面白かった。
最後には、どうしても誰かが無理な進化を取り入れ、複雑になりすぎて、わからなくなる。
The End。
何か人間の進化の過程のような。
「Global Standard」とか言って、勝手にルールを作り、その登録費やら検査代を取る欧米勢。
やりたい放題。やられるがままの我々。世の中の縮図。
・大分脱線。
言いたい事
教訓そのXX 「 To be Game Changer ( ゲーム・チェンジャーになれ)」
ルールは自分で作り出せ。
決まりを守り、がんじがらめにさせられる立場でなく、決まりを作る側に回れ。
教訓そのXX「自分のFiedlで戦え」もこの一つ。
会議等でどんな話題を議論するのか。
交渉で、何を論点、論拠にして、ディベートを行うか。基準を何にするのか。
ビジネスで、何を競い合う基準とするか。
目標そのXX「社会のルールの創出」
これが出来たら最高である。
・まあ、これも程度問題。
行過ぎると、誰かの様に「非常識」「無法者」と言われてしまう。
そう言えば、日本記録を出した足尾(筑波山)でのフライト。
大阪から引っ越して来た新参者。当時、普段は、直ぐ近くの板敷山でフライトしていた。
飛び出す場所が高く、朝早くから日が照りサーマルが期待できる東向斜面のエリア、足尾。
そこで開かれる大会。ハング・ショップOpaの餅田さんに、遠征として連れて行ってもらった。
日本記録を出したのは、足尾を初めて訪問し、大会として参加した二日目のフライトだった。
気象条件が無茶苦茶いい。
大会で設定されたコース・フライトをぶっちぎり、勝手に大好きなクロカンを行う。
・でも、ちゃんと最低限の決まりは守る。
5時半過ぎ、大会本部に一報の連絡。
「すいません、冨原ですがアウト・サイド(ゴールできずに途中で不時着)しました。
回収は自分で行います。」 以上、心配させないように、安全に降りたという連絡。
回収は、板敷山のフライヤー仲間、大学で同級だった鳥海に依頼した。
足尾に戻って来た時には、既に午前3時を回っていた。
鳥海さん。ありがとうございます。
・丁度一年前の同じ4月の第二週。これまた同級の大森が更新した日本記録、136㎞。
172㎞の日本記録樹立の話しが知れ渡り、問い合わせが殺到したのは翌日だった。
・写真は2010年3月。静岡、天竜スーパー林道から実家を目指したフライト。
親友の鵜野と二人でのフライト。
二枚目の写真は対地高度1450m位、同高度で飛ぶ鵜野。
掛川の街並み、母校の高校を見下ろす。
その後、菊川の街並み、母校の中学、実家を見下ろす。彼方に、新設の静岡空港。
ドバイ駐在前の記念すべき最後のフライト。
・初めて実家の上を飛んだのは、挑戦し始めてから、60回目のフライトだった。
埼玉から実家の静岡に、週末何度も通った結果の賜物だ。
・中国駐在から帰任後、二度目を目指して、改めて何度も通った。
実家近くに空港ができる計画が現実化し、その前にもう一度、と目指し始めた。
何度か直ぐ近くまでは行くのだが、届かず。
近くに到達するが、時間が遅くなると、最後に海風が入って来る。南風に阻まれる。
いつも付き合ってくれる鵜野が、先行して空港予定地の横に降りたこともあった。
2㎞手前に降りられる緊急ランディングを確保。飛行計器のGPSに設定。
いざとなったらそこに、と常に意識して飛んだら、そのままそこに降りてしまったことも。
気にしすぎると、その悪い事が現実化する。典型的な失敗パターン。
・開港のタイム・リミットが来たと殆ど諦めかけていた時に朗報。
なんと、空港開港が数か月延期となったのだ。
それを伝えるNHKニュースの映像は、今でも忘れられない。
また、何度も通う日々が始まった。
そして2009年5月末、6月上旬の開港を前に、ラスト・チャンスのフライトで
二回目の夢の実現。
・教訓そのXX 「To Be Greedy」 (どこまでも貪欲に)
三度目の挑戦。
もう一度、実家近くを飛んでみたい。
空港開港後、実家は9㎞圏内の為、真上のフライトは出来ない。
横から見下ろすフライトを目指す。
空港の9㎞圏内は飛んではならない。
従来のコース北からのアプローチでは9Km以上離れたところに、安全に降りられる場所がない。
山伝いに飛ぶ、アプローチが容易な迂回コースは断念。
単独フライトでは不利な平野部を行く、ストレート・コースに切り替えた。
・コースを変更してからは、なんと二回連続で、実家を見下ろすところまで飛べた。
一人で平野を飛ぶ難しさはあるが、時間が早く、海風が入ってきていないのだ。
全く違うコース、全く違う発想により、ブレーク・スルーすることが出来た。
目から鱗。
囚われる事で、如何に自ら問題を難しくしてしまうことか。
新しい発想が、如何にブレーク・スルーを生み出すことか。
・そう言えば、2001年5月、中国駐在前の最後のフライトが、実家への初のフライトだった。
練習が出来なくなる為、技術的には人生のピークと予見したフライト。ラスト・チャンス。
そのフライトで、夢の達成。
・神様は何時もドラマを用意してくれている。
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