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(飛丸日記 2018年12月17日) 「ある商社マンの物語」
飛丸日記
(2024/12/25 18:57:24)
(飛丸日記 2018年12月17日) 「ある商社マンの物語」 (2018/12/17 21:16:40)
「グリーンランド島、ニューギニア島に次いて、世界で三番目に大きな島が、ボルネオ島です。赤道直下にあって、ジャングルに覆われています。」40数年前、地理好きだった少年は、社会の授業で、想像を膨らませる。「一体どんな人が、ここに住んでいるのだろう。でも一生行くことはないだろうなあ。」
1986年夏。就活に励む青年。「うちの会社に就職すれば、向こう2,30年は安泰だ。会社が潰れる事はない。うちにはブルネイLNG(BLNG)がある。」OB訪問での先輩からの一言。天邪鬼の私。お誘いの言葉が逆効果にしか響かない。「そんな会社で働いても面白そうじゃないな。ここは止めよう。」M社を就職候補のリストから外した瞬間だった。
静岡の片田舎。親父が創業した町工場の次男坊。自分で何かを始めてみたい。そうした思いを抱きつつ、お会いした方々皆さんに気合がみなぎる伊藤忠商事に就職した。
2001年、入社15年目。自分が商売を始め、買収に携わった中国広東省の化学品工場が、その後、社長後任のなり手がない問題案件となっていた。責任感から手を挙げる。30代半ばにして出資比率80%超、香港本社と合わせ、96名の事業会社の社長。「やる気重視」。流石、伊藤忠である。赴任してみると、そこでの業務は、購買部長(兼)製造部長(兼)営業部長(兼)物流部長(兼)IT部長(兼) 財経部長(兼)社長だった。全てにおいて陣頭指揮。会社経営の貴重な経験を得る。
3年後、中国・香港駐在から帰任。プロジェクト開発担当となる。今度は自分の手で会社を立ち上げたい。そこで担当となったブルネイ・メタノール・プロジェクト。足繁く通うこと29回、2007年までに、工業団地との土地契約書、三菱ガス化学、ブルネイ政府との合弁契約書、シェルとのガス購入契約書、融資契約等など、会社運営に必要な様々な契約の締結まで漕ぎ着ける。丹羽会長(当時)、小林社長(当時)にも、節目節目でご訪問頂く。その後建設が開始され、商社マンとしての仕事は一区切りである。
2010年5月、中近東会社社長としてドバイに赴任して一か月。プラントの完工、商業運転開始を耳にする。遠く中東の地で一人、悦に浸る。帰国の度に、気になる事業の状況を確認する。その度に聞く朗報。うれしい限りである。そしてドバイ駐在を機に「イスラム」を学ぶ。
2013年4月帰任。操業から数年が立つと、どんな会社も徐々に様々な問題が蓄積してくるものだ。「冨原、お前が一番わかっている。行って解決して来てくれ。」「わかりました。喜んで。」わずか2年弱の日本駐在を経て、2015年1月ブルネイに赴任する。
「一体誰がこんな不条理な契約を結んだんだ。10年前の冨原は、相当アホだったに違いない。進化した私が契約の改定交渉をする。」社内打ち合わせでの一言。実際に運営してみると、契約の不具合が至る所に見つかる。「あの時、交渉負けして譲った条件のみならず、その時には気づかなかった事、枝葉末節とおざなりにした事がこんな形で跳ね返ってくるとは。」プロジェクトの難しさが身にしみる。
メーカー、商社、現地政府。全く性質の異なる組織が、50%、25%、25%とがっぷり組んでの合弁会社。「伊藤忠の常識は世の中の常識ではない。」思い知らされる現実。こんなの当たり前と思っても、それが通らない。約230名の社員。日本人、ブルネイ人のみならず、マレーシア人、インドネシア人、エジプト人、ベネズエラ人等々。多種多様な考え。文化の違い。社風の違い。どうやったら物事は前に動くのか。常に直面する課題である。いや、「ピンチはチャンス」、「多様性こそが世の中を進化させる源だ」と信じて突き進む。
小学校時代に思いを馳せた場所に赴任し、伊藤忠就職へと導いたBLNGとのガス分け合いを話し合う。週末には、BLNGに25%出資し、4人の駐在員を要する因縁のM社とのゴルフ対決。赴任時から競い合う事務所長さんとは、現在、「50勝46敗11引き分け」
「事実は小説よりも奇なり」 世の中、不思議なものである。
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(飛丸日記 2018年12月17日) 「ある商社マンの物語」 (2018/12/17 21:16:40)
「グリーンランド島、ニューギニア島に次いて、世界で三番目に大きな島が、ボルネオ島です。赤道直下にあって、ジャングルに覆われています。」40数年前、地理好きだった少年は、社会の授業で、想像を膨らませる。「一体どんな人が、ここに住んでいるのだろう。でも一生行くことはないだろうなあ。」
1986年夏。就活に励む青年。「うちの会社に就職すれば、向こう2,30年は安泰だ。会社が潰れる事はない。うちにはブルネイLNG(BLNG)がある。」OB訪問での先輩からの一言。天邪鬼の私。お誘いの言葉が逆効果にしか響かない。「そんな会社で働いても面白そうじゃないな。ここは止めよう。」M社を就職候補のリストから外した瞬間だった。
静岡の片田舎。親父が創業した町工場の次男坊。自分で何かを始めてみたい。そうした思いを抱きつつ、お会いした方々皆さんに気合がみなぎる伊藤忠商事に就職した。
2001年、入社15年目。自分が商売を始め、買収に携わった中国広東省の化学品工場が、その後、社長後任のなり手がない問題案件となっていた。責任感から手を挙げる。30代半ばにして出資比率80%超、香港本社と合わせ、96名の事業会社の社長。「やる気重視」。流石、伊藤忠である。赴任してみると、そこでの業務は、購買部長(兼)製造部長(兼)営業部長(兼)物流部長(兼)IT部長(兼) 財経部長(兼)社長だった。全てにおいて陣頭指揮。会社経営の貴重な経験を得る。
3年後、中国・香港駐在から帰任。プロジェクト開発担当となる。今度は自分の手で会社を立ち上げたい。そこで担当となったブルネイ・メタノール・プロジェクト。足繁く通うこと29回、2007年までに、工業団地との土地契約書、三菱ガス化学、ブルネイ政府との合弁契約書、シェルとのガス購入契約書、融資契約等など、会社運営に必要な様々な契約の締結まで漕ぎ着ける。丹羽会長(当時)、小林社長(当時)にも、節目節目でご訪問頂く。その後建設が開始され、商社マンとしての仕事は一区切りである。
2010年5月、中近東会社社長としてドバイに赴任して一か月。プラントの完工、商業運転開始を耳にする。遠く中東の地で一人、悦に浸る。帰国の度に、気になる事業の状況を確認する。その度に聞く朗報。うれしい限りである。そしてドバイ駐在を機に「イスラム」を学ぶ。
2013年4月帰任。操業から数年が立つと、どんな会社も徐々に様々な問題が蓄積してくるものだ。「冨原、お前が一番わかっている。行って解決して来てくれ。」「わかりました。喜んで。」わずか2年弱の日本駐在を経て、2015年1月ブルネイに赴任する。
「一体誰がこんな不条理な契約を結んだんだ。10年前の冨原は、相当アホだったに違いない。進化した私が契約の改定交渉をする。」社内打ち合わせでの一言。実際に運営してみると、契約の不具合が至る所に見つかる。「あの時、交渉負けして譲った条件のみならず、その時には気づかなかった事、枝葉末節とおざなりにした事がこんな形で跳ね返ってくるとは。」プロジェクトの難しさが身にしみる。
メーカー、商社、現地政府。全く性質の異なる組織が、50%、25%、25%とがっぷり組んでの合弁会社。「伊藤忠の常識は世の中の常識ではない。」思い知らされる現実。こんなの当たり前と思っても、それが通らない。約230名の社員。日本人、ブルネイ人のみならず、マレーシア人、インドネシア人、エジプト人、ベネズエラ人等々。多種多様な考え。文化の違い。社風の違い。どうやったら物事は前に動くのか。常に直面する課題である。いや、「ピンチはチャンス」、「多様性こそが世の中を進化させる源だ」と信じて突き進む。
小学校時代に思いを馳せた場所に赴任し、伊藤忠就職へと導いたBLNGとのガス分け合いを話し合う。週末には、BLNGに25%出資し、4人の駐在員を要する因縁のM社とのゴルフ対決。赴任時から競い合う事務所長さんとは、現在、「50勝46敗11引き分け」
「事実は小説よりも奇なり」 世の中、不思議なものである。
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