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「釜石の軌跡」。実際に現地で確認してみました。
飛行中年
(2024/12/25 18:57:24)
「釜石の軌跡」。実際に現地で確認してみました。 (2021/5/21 18:07:57)
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「釜石の軌跡」。実際に現地で確認してみました。 (2021/5/21 18:07:57)
10年前の東日本大震災で、「釜石の軌跡」といわれる出来事が起こりました。
釜石市鵜住居地区の小中学校の生徒が自主的に非難し、ほとんどの子供が助かることができた。というものですが…。
本当は、これはマスコミの早合点で報道されたもので、実際は水門を閉めてくださった消防団員さん、誘導してく
れた大人の方たち、たくさんの大人の方が子供の命を守ろうと、その時できることを懸命にやったために、かろうじてだったのですが、ほとんどの
子供の命を救うことができたものだそうです。
このことについて、釜石市鵜住居地区にある「いのちをつなぐ未来館」で、実際にこの時この避難を体験され、現
在その体験の語り部をされている方も、自分たちだけがマスコミから、まるでヒーロー扱いされることにかなり悩まれ、「本当はそうではない」と
いうことを懸命に訴えられました。
そうして現在、そんな誤解も少しずつ解け始め、いのちをつなぐ未来館では、災害時にどうすれば命を守ることができるのか…。そのこと
について、真剣に考えながら、訪れる人たちに熱くその思いを語られています。
私もこの語り部の方のお話を一度聞いてみたいと以前より思っていたので、先日釜石まで足を運びました。
で、実際に語り部の方が体験した本当の話を聞いてみると…。
…。涙が止まらなくなりました…。
で、あの時子供たちはどんなことを考えながら避難したのか…。それが少しでも分かるかと思い、実際に子供たち
が避難した経路を歩いてみました。
まずは小中学校があった場所。鵜住居の駅近く、だいたいこの辺になるはずです。
海抜2メートルになります。
子供たちはここで地震にあいます。
地震は長く、本震だけでも3分半ほど揺れましたが、揺れ始めて2分ほどで既に中学生はみんなが集まって避難を始めます。
なぜこんなに早く避難できたかというと…。
この地区に住まわれている方は、津波の恐ろしさを十分承知しており、避難訓練も行われていたからです。
中学生はマニュアル通りに、800メートル離れた避難場所へと移動をはじめますが…。
このとき防災放送で、津波警報が出ていること、予想される津波が3メートルであることが言われていたそ
うです。
しかし、ともに避難していた大人たちを中心に、「この揺れで3メートルでは済まないのではないか…。」という、防災無線の放送を疑問視する意
見が 口々に出ていたそうです。
マニュアル通りに避難場所に移動。ここで、別途避難してきた小学生と落ち合います。
だいたいこの辺になると思います。
海抜4メートル。
しかし、写真では確認しずらいのですが、正面奥の山斜面が地震で崩れていたことより、マニュアル通りのこの場
所も危険性があると判断。
おそらくですが、先に述べた「津波は3メートルでは済まないのではないか。」という不安も、後押しされたのだと思います。
主に大人の人たちの判断で、「もう少し上に避難しておこう。」ということになり、マニュアルにはない上への移動が始まります。
この坂を上ったことになります。
この先にはデイサービスセンターがあり、そこまでの約300メートルを再び小中学生は移動しました。
デイサービスセンターは海抜15メートル。
この坂の移動が、子供たちの運命を「死」から「生」へと変えたのです。
その場所から少し離れたところで、町の景色を見てみました。
ここまでの避難で、保護者の方が数名子供を引き取りに来られていますが、このうち1名の子供がその後来る津波に命を落としています。
ここまで避難した時、皆は町の方で起こる異変に気が付きました。
大きな音とともに、土煙が上がっていたのです。
デイサービスセンターからは、家が邪魔をして直接町が見えないのですが、その異変が津波が原因であることを知るには時間は必要ありませんでし
た。
あまりにもすさまじい光景に、恐怖を感じ、誰が言うでもなく、皆の共通意識でさらに上へと逃げたそうです。
そして、このとき、ついさっきまでいた最初の避難場所は、津波にのみこまれてしまっていました。
子供たちが最終的に逃げ延びた「恋ノ峠」。海抜45メートルになります。
ここでは子供たちはみな泣いていたのですが、数名の子供は、あまりもの恐怖に過呼吸状態になっていたそうです。
その後、何もできないままその場所で皆は留まっていたそうですが、そのうち保護者の方が迎えに来られ、子供たちは引き取られていきました。
しかし、中にはいつまでたっても保護者が現れない子供もおり…。
そこにいた、ともに逃げてきた先生方は、慰めの言葉もなく、共に泣くことしか出来なかったそうです…。
更に私は調べてみたのですが、これは、ネットなどには載せられていなかった情報で、実は…。
子供たちが最終的に避難した恋ノ峠も、その背後では津波が増幅現象により海抜30メートル以上まで来ていまし
た。
津波の増幅現象とは、地形の影響により、更に高いところまで津波が到達してしまうもので、東日本大震災の時は、最大50メートル以上まで津波
が到達しています。
つまり、もう少し津波が大きければ、海抜45メートルの恋ノ峠でさえも危険であったわけです。
今回ご紹介する、この子供たちの津波からの避難。
実は、その時々で起こっている状況に合わせて、臨機応変に行動しなければいけない!
ということを学ぶことができます。
東日本大震災は、「想定外の大きさの津波」を生みました。
これは、当初予定していた規模とは違うわけですから、マニュアルに疑問を持たなければいけな
いのです。
もし、マニュアル通りに最初の避難場所にとどまり続けていたとしたら…。
間違いなく多くの子供が犠牲になったに違いありません。
そのようなことを、皆さんにも知っていただきたいので、是非、「いのちをつなぐ未来館」に足を運ぶことをお勧めいたします。
また、これは私から「いのちをつなぐ未来館」さんに希望したいことなのですが…。
すばらし内容なので、これは日本人のみならず、海外の方でも理解できるようにした方が良いと思いました。
それぞれの国の言語を話せる語り部さんを持つことは不可能と思いますが…。
掲示板にQRコードを付けて、それに携帯をかざせば、いろいろな国の言語のガイダンスが流れるようにすれば、現実的なのではないかと思
いました。
釜石市鵜住居地区の小中学校の生徒が自主的に非難し、ほとんどの子供が助かることができた。というものですが…。
本当は、これはマスコミの早合点で報道されたもので、実際は水門を閉めてくださった消防団員さん、誘導してく
れた大人の方たち、たくさんの大人の方が子供の命を守ろうと、その時できることを懸命にやったために、かろうじてだったのですが、ほとんどの
子供の命を救うことができたものだそうです。
このことについて、釜石市鵜住居地区にある「いのちをつなぐ未来館」で、実際にこの時この避難を体験され、現
在その体験の語り部をされている方も、自分たちだけがマスコミから、まるでヒーロー扱いされることにかなり悩まれ、「本当はそうではない」と
いうことを懸命に訴えられました。
そうして現在、そんな誤解も少しずつ解け始め、いのちをつなぐ未来館では、災害時にどうすれば命を守ることができるのか…。そのこと
について、真剣に考えながら、訪れる人たちに熱くその思いを語られています。
私もこの語り部の方のお話を一度聞いてみたいと以前より思っていたので、先日釜石まで足を運びました。
で、実際に語り部の方が体験した本当の話を聞いてみると…。
…。涙が止まらなくなりました…。
で、あの時子供たちはどんなことを考えながら避難したのか…。それが少しでも分かるかと思い、実際に子供たち
が避難した経路を歩いてみました。
まずは小中学校があった場所。鵜住居の駅近く、だいたいこの辺になるはずです。
海抜2メートルになります。
子供たちはここで地震にあいます。
地震は長く、本震だけでも3分半ほど揺れましたが、揺れ始めて2分ほどで既に中学生はみんなが集まって避難を始めます。
なぜこんなに早く避難できたかというと…。
この地区に住まわれている方は、津波の恐ろしさを十分承知しており、避難訓練も行われていたからです。
中学生はマニュアル通りに、800メートル離れた避難場所へと移動をはじめますが…。
このとき防災放送で、津波警報が出ていること、予想される津波が3メートルであることが言われていたそ
うです。
しかし、ともに避難していた大人たちを中心に、「この揺れで3メートルでは済まないのではないか…。」という、防災無線の放送を疑問視する意
見が 口々に出ていたそうです。
マニュアル通りに避難場所に移動。ここで、別途避難してきた小学生と落ち合います。
だいたいこの辺になると思います。
海抜4メートル。
しかし、写真では確認しずらいのですが、正面奥の山斜面が地震で崩れていたことより、マニュアル通りのこの場
所も危険性があると判断。
おそらくですが、先に述べた「津波は3メートルでは済まないのではないか。」という不安も、後押しされたのだと思います。
主に大人の人たちの判断で、「もう少し上に避難しておこう。」ということになり、マニュアルにはない上への移動が始まります。
この坂を上ったことになります。
この先にはデイサービスセンターがあり、そこまでの約300メートルを再び小中学生は移動しました。
デイサービスセンターは海抜15メートル。
この坂の移動が、子供たちの運命を「死」から「生」へと変えたのです。
その場所から少し離れたところで、町の景色を見てみました。
ここまでの避難で、保護者の方が数名子供を引き取りに来られていますが、このうち1名の子供がその後来る津波に命を落としています。
ここまで避難した時、皆は町の方で起こる異変に気が付きました。
大きな音とともに、土煙が上がっていたのです。
デイサービスセンターからは、家が邪魔をして直接町が見えないのですが、その異変が津波が原因であることを知るには時間は必要ありませんでし
た。
あまりにもすさまじい光景に、恐怖を感じ、誰が言うでもなく、皆の共通意識でさらに上へと逃げたそうです。
そして、このとき、ついさっきまでいた最初の避難場所は、津波にのみこまれてしまっていました。
子供たちが最終的に逃げ延びた「恋ノ峠」。海抜45メートルになります。
ここでは子供たちはみな泣いていたのですが、数名の子供は、あまりもの恐怖に過呼吸状態になっていたそうです。
その後、何もできないままその場所で皆は留まっていたそうですが、そのうち保護者の方が迎えに来られ、子供たちは引き取られていきました。
しかし、中にはいつまでたっても保護者が現れない子供もおり…。
そこにいた、ともに逃げてきた先生方は、慰めの言葉もなく、共に泣くことしか出来なかったそうです…。
更に私は調べてみたのですが、これは、ネットなどには載せられていなかった情報で、実は…。
子供たちが最終的に避難した恋ノ峠も、その背後では津波が増幅現象により海抜30メートル以上まで来ていまし
た。
津波の増幅現象とは、地形の影響により、更に高いところまで津波が到達してしまうもので、東日本大震災の時は、最大50メートル以上まで津波
が到達しています。
つまり、もう少し津波が大きければ、海抜45メートルの恋ノ峠でさえも危険であったわけです。
今回ご紹介する、この子供たちの津波からの避難。
実は、その時々で起こっている状況に合わせて、臨機応変に行動しなければいけない!
ということを学ぶことができます。
東日本大震災は、「想定外の大きさの津波」を生みました。
これは、当初予定していた規模とは違うわけですから、マニュアルに疑問を持たなければいけな
いのです。
もし、マニュアル通りに最初の避難場所にとどまり続けていたとしたら…。
間違いなく多くの子供が犠牲になったに違いありません。
そのようなことを、皆さんにも知っていただきたいので、是非、「いのちをつなぐ未来館」に足を運ぶことをお勧めいたします。
また、これは私から「いのちをつなぐ未来館」さんに希望したいことなのですが…。
すばらし内容なので、これは日本人のみならず、海外の方でも理解できるようにした方が良いと思いました。
それぞれの国の言語を話せる語り部さんを持つことは不可能と思いますが…。
掲示板にQRコードを付けて、それに携帯をかざせば、いろいろな国の言語のガイダンスが流れるようにすれば、現実的なのではないかと思
いました。
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