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山本五十六のすごさって…? (2021/10/28 19:39:14)
「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は動かぬ…。」
これ、山本五十六氏が残した言葉です。
要は、自分が実際にやって見せて、それを人に教えてやらせてみせ、褒めてやらなければ物事は動いていかない…。という
ことですね!
この言葉、裏を返せば、いかに山本五十六氏の能力が高かったか…。ということを表しているように思えるのです…。
実際、彼は「真珠湾攻撃」を、今までにない「魚雷」を主体とした方法で攻撃することで成功に導きました。
しかし…。
念のためお話ししますが、彼はもともと「戦争反対」を唱えていました。
一貫して、日独伊三国同盟、および、日米開戦については反対していました。
でも、当時の日本帝国軍は、戦争を推し進める雰囲気がぬぐい切れず、さらに、アメリカが日本に対し「石油販売の差し
止め」を行ったため、時代の流れで、日本はアメリカと戦争せざるを得ない状況となっていました。
その時に、「白羽の矢」がたったのが、秀でた能力を持っていた山本五十六だったのです…。
五十六がなぜ一貫して、日独伊三国同盟、および、日米開戦に反対していたのか…。
それは…。
能力があったからこそ、太平洋戦争が起こったらこの先どうなるか、そのすべてを見通せていたからだと私は思いま
す…。
先日、私は新潟県は長岡市にある「山本五十六記念館」に足を運び、このことを大いに学んできました!
山本五十六…。太平洋戦争中、海軍の参謀の一人だった方ですね!
彼の能力が秀でていたことを示した出来事が、先にも述べあように「真珠湾攻撃」。
それまでの戦争って、「戦艦」が主役でした。
正確に言えば…。
「巨砲」を運ぶ手段としての「戦艦」ということです。
戦艦同士の戦いって、より、大きな主砲を持つことが、戦ううえで有利となりました。
理由は、大きな主砲は、より、有効射程距離が長かったからですね!
大きな主砲を持つ戦艦は、敵の戦艦よりも主砲の有効射程距離を長く取れるため、早く攻撃が出来、戦いを有利に進めら
れたんですね!
そういった理由で、第二次大戦が始まるまでは、「巨艦巨砲主義」…。つまり、大きな戦艦に大きな主砲を積む…。とい
う考え方が支配していました。
「大和」なんかは、まさにこれの典型的な例と言えると思います。
この、巨艦巨砲主義を覆してしまったのが、山本五十六だったのです。
彼は、早くから「航空」に目を向け、その可能性を探求していたのです。
その結果、航空機に魚雷を載せて、それで、敵戦艦を攻撃する方法が有効…。という考えに行き着いたのです。
魚雷は、それまでは、「駆逐艦」などの軍艦に載せて、敵の戦艦に発射する…。という方法がとられていましたが、敵の主
砲の射程距離の中まで侵入して、魚雷を発射しなければ、命中しませんでした。
これでは、先に駆逐艦が敵の主砲の餌食になってしまう可能性があります…。
そこで、ちょこまか動き回って玉が当たらない航空機から、魚雷を投下する方法が考えられましたが…。
初期の航空機による魚雷攻撃って、100メートルほどの高い高度から魚雷を落とす方法でした。
しかし、この方法だと、投下した魚雷が、水に落ちた衝撃やらで、その軌跡がずれてしまい、うまく敵艦に命中できなか
ったんですね!
これに革命をもたらせたのが、山本五十六だったのです。
彼は、今までのような高い高度からではなく、水面ギリギリから魚雷を投下し、その命中率を上げる方法を考案。
装備を改良したり、パイロットを訓練したりして、その方法を実用的なものに仕上げたのです。
その、航空機による魚雷攻撃の初陣となったのが、真珠湾攻撃だったのです。
このあざやかな航空機による魚雷攻撃に、アメリカ軍は衝撃を受けました。
そして、日本にはかなり有能な参謀がいることを知ったのです。
その大敗から、逆にアメリカ軍は、航空機による魚雷攻撃の有効性を悟り、のちに、ミッドウェイ海戦などで勝利を収め
ることになったんですね!
この太平洋戦争の始まりとなった真珠湾攻撃。
実は、歴史研究家の中では、いろいろなことがささやかれています。
まず、真珠湾攻撃のとき、そこにはアメリカ軍の空母が一隻もなかったこと…。
これについては、一説として、アメリカ軍は、すでに日本軍が攻めてくるという情報を握っていたため、その後の戦争の
主役となり得る空母を避難させていたのでは?などともささやかれています。
また、一見日本軍の圧勝と見えた真珠湾攻撃。
実は、大きなミスをやらかしていました。
その大きなミスとは、戦艦ばかり沈めて、軍艦の補給設備を叩かなかったことです。
これははっきり言って「おおまぬけ」です。
補給設備を叩いておけば、その後のアメリカ軍の軍艦の運用に支障が出せたため、戦争の行方を大きく有利に進めること
ができたはずです。
これについて、山本五十六は、「彼らに任せましょう…。」と、ぽつりとつぶやいただけだったそうです…。
さらに…。
山本五十六は、真珠湾攻撃を実施する前に、くれぐれも宣戦布告だけはしておいてくれ…。と、念を押していたようです
が…。
実際には、真珠湾攻撃が行われた50分後に、遅れて宣戦布告がだされたとなっています。
この出来事により、アメリカ人は、真珠湾攻撃は「日本人の不意打ち」という意識が高まり、戦争高揚のムードが高まっ
たといわれていますが…。
これって、本当に宣戦布告が50分遅れていたの?という疑問が、個人的にはあるんです…。
そもそも、アメリカ軍は、上にもご紹介したように、真珠湾攻撃を事前に知り、空母を避難させておいた可能性がありま
す。
そこまでアメリカがすべてを見通しているのならば…。
アメリカ国民を一致団結させるため、たとえ事前に宣戦布告を聞いていたとしても、それを公表せずに、「日本軍の不意
打ち」という形をとれば、より、都合が良かったのでは?なんて、妄想も、私は持っているんです。
真実はどうか分かりませんが、真珠湾攻撃の大敗より、アメリカ軍はその報復のため、山本五十六を探し求めます。
一方、五十六は、戦争最前線への訪問を自ら希望。
おそらくですが、彼は、自分だけ安全なところに身を置くことが「苦痛」だったのだと思います。
そして、昭和18年4月18日、日本軍が流した無線により、ガダルカナルから山本五十六が一式陸攻で移動することを知り、
ブーゲンビル島で、その機が撃墜され、山本五十六はその生涯を閉じることになります…。