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和歌山再発見の旅! 9日目 (2022/1/12 18:44:58)
昨夜は居心地の良い戸田の道の駅で、ぐっすり寝かせていただきました!
本日は休息日!
戸田の町をゆっくり見てみたいと思います!
いつもより遅く起きた後は、近くの出会い岬に行きます。
横須賀さんも、ここに来られていましたが、景色が良さそうなので気になっていました!→ ボクシーが行く
出会い岬より、戸田の町を見下ろします。
確かにここは景色が良いです!
リアゲートキッチンを引き出して、コーヒーを豆から挽いて入れます。
富士山を眺めながら…。
至福のひと時です…。
ここで昨晩泊まられていたご夫婦と、しばし歓談…。
このご夫婦も、なかなかの車中泊のプロ!
参考になる装備をいろいろ見せていただき、勉強になりました!
この後は、ずっと前から訪れてみたいと思っていた、造船郷土資料博物館へ…。
まず、この場所の説明をしますと…。
幕末、ロシアが貿易に関する条約を結びに下田に来たのですが、その時津波に遭い、船を破損します。
それを修理するために、戸田へと移動していた時、今度は嵐に遭い、ロシア船は沈没。
ロシア人は自国に帰ることが出来なくなりました。
そこで…。
日本の腕利きの船大工が集められ、戸田の地で、とりあえずロシアまで船を呼びに行ける、小型の船を作ったのです。
この時…。
ロシア人は、日本の船大工に、当時最先端の外洋が航行できる船の製造のノウハウを教えたのです。
このことが、のちに、日本の近代化の役に立ったのですね!
日本は長らく「鎖国」をしていたため、本格的な外洋を航行できる帆船の製造は、実に250年ぶりだったそうです。
戦国時代から、江戸時代初期にかけては、伊達政宗公や、徳川家康公が、西洋船の製造を命じていましたが、その時作ら
れたのは、ガレオン船という種類の船でした。
イメージ的には海賊船のような形の船ですね!
これらは、安定性はあるものの、スピードには欠けるものでした。
戸田の港で船大工とロシア人が作った船は、上記のガレオン船よりずっと進化した船でした。
ヨットのように、横風を主に受けて進む形となり、向かい風に対してもかなりな角度で進める性能があります。
船体は、ガレオン船に比べてずっとスマートになり、明らかにスピードが出せます。
その分、安定性には欠ける形状ではありますが…。
おそらくなんですが…。
このころになると、気象のこともよくわかるようになり、嵐に出喰わしても沈まないのではなく、嵐を避ける手法が定着
したためかな?と、私は考えました。
ガレオン船は、嵐を「安定性」で耐える考えです。
しかし…。
戸田で作られた船は、スピードで嵐から逃れたのでは?と、思いました。
例えば台風は、北半球では必ず「反時計回り」で風が吹きますから、雲が左に流れのを見る、つまり、背後に台風の目と
なるように前に進めば、嵐からは逃れられます。
だったら、船のスピードは速い方が良いに決まっています。
これについては、私の勝手な想像なので、帆船の進化に詳しい方がいらしたら、ご教授お願いいたします。
この後の時代には、この形状の船に蒸気機関と大砲が積まれて「軍艦」へと進化していったわけですね!
資料館の資料を見てみると、戸田でロシア人の指導の下、この船が作られたとき、日本人とロシア人の間に、自然と「友
好関係」が生まれたそうです。
そして、その後、この戸田とロシアの間には、末永く交流がもたれるようになったのだそうです。
…。
…。
私は思うのですが…。
昨年夏の、私の北海道の旅では、ロシア(この時はソ連)との悲しい歴史、例えば、樺太侵略とか、三船受難事件とか、
樺太の電話交換手の乙女の自決の話とか…。 詳しくはこちら
そんな話ばかりご紹介しなければならないことが多かったのですが、ここ「戸田」では、同じ国でありながら、「友好関
係の歴史」がちゃんとあります。
結局なんですが…。
時代の流れや政治の都合で、庶民が振り回されてしまい、正しい判断が出来なかっただけじゃないでしょうか?
…。
造船郷土資料博物館で、長々といろいろな資料を見た後は、道の駅に戻ってお昼ご飯です。
何か良いものがないかと見ていたら、「ボッチポテト」なるメニューが…。
ボッチとは、目ヒカリのこと。
唐揚げの目ヒカリと、フライドポテトです。
「酒のつまみになりそう…。」なんて考えていたら…。
やってしまいました…。
昼からボッチポテトで一杯です…。
でも、これは美味しかった!
仕方がないので、食後はしばし昼寝zzz。
夕方に買い出しに行って、弁当と冷凍のほうれん草のソテー、それに、太地で買ったイワシの干物を焼いて夕食です。