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能登から岐阜への旅…。その3 (2022/11/15 20:36:56)
昨夜は、郡上市の山の上にある和良の道の駅での宿泊…。
只今、改装工事中!
ここはとにかく水がキレイ!
道の駅の案内図を見てみると、オオサンショウウオの生息地らしいです!
どおりで水がキレイなはずです。
すごく興味がわいたので、ちょっと近くの川に、オオサンショウウオを探しに行こうか!と、思ったのですが…。
今の季節に、両生類がノコノコ歩いているはずがないことに気が付きます。
あ~危なかった。もうちょっとで、バカ丸出しするところだった!
今朝、一番で来たのが…。
金山巨石群!
ここは、こちらの方のブログで知りました!→ 正しい道を司る
物凄く興味が湧いたため、今回訪れてみました。
何気なく置かれた巨石ですが、実は…。
正確に正面が南を向いており、中央、左右の巨石のおかれている角度は…。
これまた正確に、冬至の前後60日になると、洞穴の中に日が差すものになっています!
更に…。
右側の巨石の背面の角度が、正確に春分の日、秋分の日、の日の光の角度に合致しています。
更に更に…。
冬至、夏至の日も正確に分かるように、他にも巨石が並べられ…。
更に更に更に、うるう年まで正確に計測できる巨石の並びもあります。
この巨石群が作られたのは、紀元前500~1000年前の縄文時代後期。
こんな昔に、これだけ正確な暦があったことが驚きです!
縄文時代後期というと、そろそろ農耕が行われていた時代です。
焼き畑農法による稲作も、既にこのころに始まっていました。
おそらく、金山巨石群の近くに、縄文時代に大きな集落があったに違いありません。
で、なければ、これだけ大きな巨石を動かせるはずがありません。
調べてみると、乙原という集落が、この巨石群の川下にありました。
現在は、ダムでかなり沈んでいますが…。
この乙原集落あたりは、なだらかな谷になっており、良い集落ができそうな場所です。
ここにもし、縄文時代の大集落があったとしたら…。
ここの住人は、季節ごとに変化する、谷の中の山影、日の照り方などを観察していたはずです。
そんなことから、農耕では、正確な暦が欠かせないため、太陽観測を正確に行うようになり…。
岩屋巨石群を、後世への財産として作ったんじゃないか…。
そんなことを私は考えながら、この巨石群を眺めていました。
金山巨石群を後にして、次にやってきたのは…。
杉原千畝記念館!
この方、6000人ものユダヤ人の命を救った方です。
ここも、上にご紹介した「正しい道を司る」というブログで知りました!
第二次大戦時、その命が危なかったため、ユダヤ人はポーランドに逃れていましたが…。
ソ連の進行とともに、いよいよポーランドも危うくなりました。
ユダヤ人の方々が生き延びる方法は、ただ一つ、リトアニアよりヨーロッパを脱出し、日本を経由。
ユダヤ人を受け入れてくれる、中国やアメリカ、オーストラリアなどの国に逃れるしかありません。
そのためには…。
まず、リトアニアの日本領事館で、ビザを発給してもらう必要があったのです。
その時に、ビザの発給にあたったのが、杉原千畝氏だったのです。
杉原氏は、日本の外務省に、ユダヤ人のビザ発給の許可を取ろうとしますが…。
しかし、外務省はそれを許可しません。
職務をとるか、人道愛をとるか…。
杉原氏は悩みますが、しかし、人道愛をとったのです!
日本の外務省の指示を無視し、杉原氏はとにかくユダヤ人を助けるために、ビザを発給し続けます。
当然、杉原氏は日本の外務省の指示で、その職を追われますが、その間作成したビザが約6000人分!
その方たちは、杉原氏のこの行為により、生き延びることが出来たのです。
もう、この杉原千畝記念館に入ってから、目頭が熱くなりっぱなし!
これほどの感動を味わったのは、何年振りでしょうか?
じっくりと記念館の資料を見ていきます。
小さな記念館で、300円で入館できますが、大きな感動を得ることが出来る場所だと思います。
ここは、是非皆さんも行ってみてください。
ちなみに…。
杉原千畝氏は、最終的には鎌倉に住みますが、実は、私も鎌倉に住んでいた時期があり…。
杉原氏の年表を見てみると、約2年間ですが、意外と近くに住まわれていたことが分かりました!
なんか、凄くうれしかった…。
この日はほかにも回りましたが、長くなったので、また次回!