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feed <飛丸日記 7月29日> 「鮎の塩焼き」 を求めて (2023/8/3 20:15:42)
230729 静岡 鮎の塩焼き2
230729 静岡 鮎の塩焼き1
230729 静岡 鮎の塩焼き4

「元社長を囲む会」では、毎回お袋の状況報告をお願いした。
いや、正式な会議の議事録である。
2回目の報告書。
「具合はかなり良くない。一日も早く会いに来た方が良い。」
ん?また何か噛み合わない。容態の悪化が一段と進んでいるのだろうか?
旅行中の私。フライトを変更し、4日前倒しして戻り、実家を目指す。
空港に着き、直ぐ施設に電話をする。
「一刻も早く来て欲しい。」
タクシー利用を乱発し、到着時間を1時間早める。

7月24日、17時前、施設到着、1時間程、お袋に話し掛ける。
もはや応えは返ってこないが、目に涙が浮かぶのがわかる。
18時過ぎ、叔母二人が合流。
19時過ぎ、お孫さんが合流。
20時過ぎ、呼吸が確認できない。医者を呼ぶ。

7月27日、お通夜、28日、お葬式。
7月29日、娘、息子とお袋が食べたいと言った「鮎の塩焼き」を求め、
大井川上流、安倍川上流を彷徨い、やっと辿り着く。

葬儀では、社員さんが自発的に受付をやってくれた。
後で聞くと最後の喪主挨拶は聞こえなかったという。
是非、聞いて欲しかった。
社員さんもこのブログを読んでいる。
ブログに載せる話でもないが、以下思い出しの抜粋版。

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本日はお暑い中、母、冨原初枝の葬儀に御参列頂き、ありがとうございます。

勝手ながら私の母との思い出話を幾つかさせて下さい。
とは言え、有限会社 冨原製作所、今は株式会社 トミハラの事を語らずして、
お袋の事は語れません。

私が高校3年の時、菊川の大洪水がありました。
ネットで調べると、昭和57年9月12日。
お袋は昭和13年生まれですから、当時44歳の働き盛りです。
この日お袋と私は工場の2階で卓球をしていました。
台風の直撃です。台風の目に入り雨風が収まった時に
家の真横の川を見に行くと、丁度堤防を水が超え始めているところでした。
浸水を避ける為、工場の製品を高い所に上げたのですが、
水かさが増し、更に一段上げました。
また水かさが増し、もう一段高いところに上げる。
3回上げたところで、もうそれどころではなくなり、工場の2階に避難しました。
家の横で堤防が決壊し、濁流が車を押し流していく、一面水浸しの光景。
その光景を見て泣く、お袋の姿は今でも忘れられません。

水が引くと、工場と実家、敷地全体が50㎝以上の土砂で埋まっていました。
大阪の大学に通っていた兄貴がバイクで駆け付け、近隣の方々、社員さん、
取引先の方々が一週間以上にわたり土砂の取り除き作業を手伝って頂きました。
私も一週間学校を休みました。
延べ500人以上の人が来てくれたと親父が言っていたのを覚えています。
皆さんから受けた御恩を忘れるな、とお袋からは言われていました。

2010年に若くして兄貴が亡くなり、2018年には親父が亡くなりました。
伊藤忠に勤め当時ブルネイに駐在していた私は、社長にならない事等を条件に兼業を認めてもらいました。
私が会長、お袋が社長という形で、親父、兄貴がやってきた会社をなんとかつなぐ事を二人で決めました。
ブルネイの会社から自宅まで車で約20分、毎晩のようにお袋と電話で話しました。
国際電話です。当然何十万も掛かりましたが、そんな事は言ってられません。
それまでお袋とそんなに話をする機会はなかったのですが、本当にいろいろな事を話し合いました。
今まで親父の陰に隠れていて気づかなかったのですが、
自分の母親はこんなにも聡明な人なんだと驚きました。
そして実はお袋は親父並みに頑固です。
商社マンをしている私はこうした話し合いの機会は多いのですが、今まで2回だけ、
一方的に電話を切られた事があります。その内の一回がお袋です。
家に着き、改めて電話をすると、何もなかった様に話し出すお袋。
あの時の事が思い出されます。

2019年癌を患ったお袋は、会社を引退しました。
体力が衰えていく中、昨年年始には寸又峡温泉、9月には舘山寺温泉、
年末には娘と3人で梅ヶ島温泉、今年5月には焼津のホテルに行きました。
温泉好きで喜んでくれるお袋、私にはお袋と過ごす機会が一杯取れて良かったです。

単なる見合い結婚だっと思っていましたが、親父との馴れ初め話も聞きました。
 
初めての社員旅行がなんと寸又峡温泉だった話も聞きました。
妹の叔母さんが、お転婆で危なっかしくそこの崖の近くまで行ったが、
自分は怖くて行けなかった事。
会社のみんなでここで写真を取った事等、昔話を楽し気に話してくれました。

会社が創立60周年を迎えるので、社員さんや家族を呼んで、パーティーをするアイデアを
お袋に相談しましたがお袋に叱られました。
会社が今こうしてあるのは、今の社員さんのお陰でもあるが、
これまで支えてくれた今まで働いて頂いた社員さんのお陰だ。
もう老いてパーティには来られない、そうした方々にも感謝すべきだと。
丁度1年前の8月1日、満60周年記念として100人前後の方々に、記念品を送付しました。
常にそうした心配りをしているお袋でした。

また、こうした機会をお袋と持てたのは、親父、兄貴が天から見守ってくれているからだと思っています。
今、お袋が天に旅立ちました。
親父、兄貴の元へと向かいました。
これからは 親父、兄貴と共に3人で、我々家族を、親戚の皆さんを、社員さんやその家族、
近隣の皆さん、取引先の皆さん、そして社会を温かく見守ってくれることと思います。

お袋に成り代わりまして、改めて皆さんに申し上げたいと思います。
お袋の人生に対し、ご支援を賜り、誠にありがとうございました。





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